前回の続き、第2回目はミッション付きに乗り始めた時代です。
第1回目同様、あいかわらず『バカ青春時代』です。

HONDA モンキ−東京リミテッド

前回の最後で紹介したタクトを事故で失って困っていたところ、当時の職場の親方が車庫に眠らせてあったのを譲ってくれました。この頃はガラにもなくファッションデザイナーなぞを目指しており、知り合いに声をかけられてデザイナーとして就職しましたが、その会社がたまたまビリヤ−ド台の輸入をやっていたため、毎日現場で玉突き台を組み立てておりました。デザイナーとしての唯一の仕事はファッションマッサージのおねえチャンの制服のデザインと製作でした。しかし、生地代をケチったため、すぐにおしりが破けるというクレームがついてしまい、お店に呼び出されて怒られた時に「セクシーでいいじゃないですか」と開き直ったら相手がますます激昂してしまい、それ以来ビリヤード台の組み立て専門になってしまいました。自分もその方が性に合っていて、現場はとても楽しかったです。このバイクの最後は夜間働いていたビデオ屋の前でまたまた盗まれてしまいました。


HONDA VT250FC

このころちょうど昭和天皇の崩御が間近で都内はどこも検問の嵐でした。単車の免許は原付しか持っていなかったのですが、普段は友人所有の中型に乗っていたので「これはマズイ」と、教習所に通うことにしました。資金集めのためにフリーマーケットを始めたところ、友人達よりあっという間に押し入れ一杯の洋服が集まったので毎週日曜日は代々木、千駄ヶ谷のフリーマーケットに出店していました。たまたまブランドモノの服が多かったため、教習所の費用どころか生活費まで稼ぐようになり、協力してくれた人達にもおごりまくっておりました。晴れて免許を取得し、友人から「もう乗らないからお祝いに」と、もらったバイクがこれです。正直に言うと全然気に入ってませんでした。性能はともかく、まずルックスが大嫌いでしたね。ないよりマシなので乗ってましたが、次に中免を取った友人にプレゼントしてしまいました。

HONDA ステップバン

友人から10万円で購入しました。この写真は山梨の解体屋に積まれてしまった時のモノです。仕事で富士急ハイランドへ行った時に、地元のツッパリの信号無視によって潰されてしまいました。この頃は今で言う“便利屋さん”のようなことをしており、この車をつかって、主にカメラマン、スタイリスト、グラフィックデザイナーのアシスタントのようなことをやったり、某ロック歌手のファンクラブ会報発送など、ありとあらゆることを仕事にしていました。貧乏だったのでマンションの台所をフリーのデザイナーさんに間貸しして家賃をもらっていたのはいいのですが、あのテの人種は深夜から仕事をするので家に帰ってからもお手伝いや話し相手をしたりしてほとんどプライベ−トがない状態でした。でも帰ると夕食ができていてみんなで食べたりして、それはそれで楽しかった思い出です。この人達も今ではそこそこの有名人になってます。嬉しいですね。



ピアジオ VESPA50s

ウチの台所を貸していたデザイナーさんが「ベスパに乗りたい」というので自分が手配して当時としては格安の18万円で買ってきました。しかし当の本人は非常に小柄な人で“クラッチレバーにやっと指が届くが握れない”というオチになってしまいました。「やっぱりアタシは国産にするワ」ということで自分が借りて乗っておくことになりました。憧れのベスパに乗り始めたのはいいんですが、借り物ということで結構気を使いました。とにかくパーツが高価で、ウインカーレンズなんか2000円くらいしてましたから、かなり維持が厳しかったですね。デザイナーさんが仕事が増えてウチから引き揚げる時に「いままでありがとう」と置いていってくれました。その後、ある事業おこしの資金集めの時に「売っちゃってもいいよ」というありがたいお言葉をいただき、泣く泣く手放してしまいました。当時の写真がないのでThe Whoの四重人格のジャケットです。これは50sじゃないけどベスパですね。GSかな?Rallyかな?ジャケも曲もモーレツにカッコイイです!



学校を卒業してもロクに働いていない自分を振り返り、驚いてしまいました。
この後いよいよバイクいじりに目覚め始めます。果たして続きは掲載されるのか・・